昔あった「祭り番」 |
9月中旬、各集落のお宮ではしきたり通り、神事の祭りが、それぞれに執り行われますが、祭りにはまた、日ごろの厳しい農作業を共にねぎらう楽しみもありました。
その一つが、娯楽のない時代の休養と慰労の知恵、「祭り番」の習わしでした。
祭り番は毎年、集落が持ち回りとなり、「番」になった集落が主幹した娯楽催事がにぎやかにとり行われました。
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祭り番集落の青年団(学校卒業したら男女全加入)が中心になって歌、踊り、演劇など、趣向をこらした全員参加の素人演芸会を盛大に行い、村の人たちを楽しませました。 |
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祭り番集落の家々では、番ではない集落の縁戚家族を招いて、精一杯の手造り料理でもてなしをしていました。 |
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上樽本のお宮(神明社) |
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お宮は、集落の東はずれの山すそにあります。大きなイチョウが紅葉した晩秋に葉が落ちて、すべてなくなる頃に初雪が降ると教えられていました。 |
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かつての祭は、お宮参道の石階段入り口に、のぼり旗、吹流し旗を飾りました。
写真の「旗台」には、次の文字が刻まれています。
*左:社木伐採記念社台 並 建之昭和三年十一月
*右:杉目通二丈四尺価格二千二百円 |
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約100段の石段を登りきると、境内奥に雄大な神木を背にした二つの祠が祀られています。その内の1つは、沼集落からの移設と伝えられています。 |
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神木の樹齢は分かりませんが、永い歳月の歴史を語りかけてくれる、無言の重みを感じ受けるものがあります。後方の巨樹、夫婦杉は幹周り5m以上あります。 |
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<旗台に刻まれている文字の由来> |
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お宮の祠は、昭和3(1928)年までは、写真のイチョウの木の所にありました。
その頃、「沼集落」に祀られていた祠の、上樽集落への移設が決まり、その受け入れを機に、今の場所に祠が移設されました。
この移設費用の捻出で神木を伐採した、その記念碑も兼ねて旗台が建てられました。
この神木の根元はウロになっていて、伐採前の当時、子供達のかくれんぼの遊び場にもなっていた程の、巨樹であったと伝えられています。
刻まれている「二丈四尺」は、約8mに相当します。
この歴史について、した(下)お宮、うわ(上)お宮と語り継がれています。 |
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中樽本のお宮(諏訪社) |
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お宮は、中樽集落を一望できる高台にあります。入り口には、昭和34(1959)当時の集落の四季と暮らしを偲んだ石碑が建立されています。 |
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石階段を登ると目前に、屋久杉を思わせる樹形の神木、杉の巨樹が迫ってきます。
樹齢は分かりませんが、幹周りは約6.4mです。 |
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この神木は、集落の大火(明治35<1902>年)の際、焼けこげる被害を受けましたが、活き返り、厳しい風雪に耐えぬいて、100年を超える今もたくましく成長を続けています。 |
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祠の隣には元村民の有志28人による、中樽集落の過疎化に思いをはせた石碑があります。
昭和61(1986)10月に建立されました。 |
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お宮の片隅には、昔、中樽集落の用水池「つつみ(堤)」を造る費用捻出で伐採したと伝えられる、朽ちた大きな切り株(径約3.6m、幹周り約8m)もあります。 |
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<お宮の石碑文言> |
ありし代を 顧みすれば 山の辺の 豊葦原ぞ恋しけれ
千古の歴史しのばるる ふたたび灯のともる日を みんなで心に祈りつつ
ゆかりなつかし中樽本
昭和六十一年十月吉日中樽本集落碑建立発起人(28人連名略)
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