集落のきずな |
大昔のこと、上樽集落が開拓されはじめた当初、「木賀氏と小出氏」のどちらが先駆け(開祖)の「氏」であったのか、について永く論じられ、語り継がれています。
これらについては、明治32(1902)年の大火で、村役場と共に行政資料も焼失したためなのか、歴史記録が見当たりません。
実証記録はないものの「観音さま」は、集落をあげて親しまれている永い歴史が、その答えなのかも知れません。
小出観音には隣接して、小出氏系(本家と分家一同)が共同で納まってきた墓、地続きには同本家の昔からの敷地跡もあります。
なお、上樽のそれぞれの「氏系(本家と分家一同)」の絆は固く、お墓は一族共同で一つに納まり、墓石には「**家」とせずに「**氏一同」、「**組」等と記されてきました。 |
|
|
昔ばなし |
|
「観音さま」と、それを護ってきた小出氏本家には、昔からの言い伝えと、その物証と伝えられるものがあって、近年まで大切に保管されていました。
その物証類は昭和の中頃以降、行方知れずになったことが悔やまれています。
|
* |
親鸞聖人が流罪になって承元元年(1207)年から越後で過したおり、日本海側から信濃(飯山)方面に旅する途中、ひと時の休憩をしたと伝えられています。
お礼に書き残しと伝えられる「南無阿弥陀仏」の書が、近年まで残されていました。 |
|
* |
金色に輝く鞍をつけた白馬に乗った侍が訪れて休みをとり、お礼に馬具(ハミ:くつわの馬の口に当たる部分)を残して旅たったと伝えられています。 |
|
|
|
金の鞍に乗った侍が訪れた昔ばなし(前項)の、その鞍が「観音堂の床下に埋めてある」、と夢枕で告げられた村人がいました。
昭和の中頃のことでした。
その夢にそって集落の古老数人が、敷地はし斜面から横穴を大きく掘り起しましたが、何一つ出土していません。 |
|
|
|
大昔、上樽集落が火事になり、村人総出の消火の様子を見かねた「観音さま」が、自ら「観音堂」から抜け出て消火を手伝い、その際、「観音さま」が小指を失った。
このような言い伝えが、最近まで集落の一部にありました。
このことは、今も上樽集落に住み「観音さま」を護り続けている方、そのご本人から「一つの伝説に過ぎず、事実ではない」と説明を受け、写真撮影も許されました。 |
|
|
観音像の日ごろ |
|
近年は観音堂に安置されていて、いつでも拝観できますが、かつては、まつりごとの日を除いて「小出氏系本家」の仏壇に移して護られていました。
同本家が遠くに転居した際には、一家と共に、その遠方にまで移したこともありました。
今は、樽本に住み続けている小出氏系近親者によって、手厚く護られています。 |
|
|
観音像の今昔 |
かつて、観音像は金色に輝いていたと伝えられています。その金色の観音像が盗難にあって行方知れずとなり、二代目として今ある「観音さま」は造られました。
昭和23(1948)年、隣接する民家の火事で、観音堂が類焼した際にも、「観音像」は小出氏本家の仏壇に安置されていて、災難に会わずに済みました。 |
|
|
観音堂の再建と改装 |
全焼した観音堂は、翌年の昭和24(1949)年、四つの集落全戸の協力寄進を得て、再建されましたが、それから半世紀、雪害と補修、改装をへて、今の姿になりました。 |
|
|
|
|
|
|
昭和46(1971)年 5月撮影。
昭和24年再建から22年間、風雪に耐えた観音堂です。 |
|
昭和52(1977)年 8月撮影。
観音さまが、豪雪の厳しさを訴えました。 |
|
|
|
|
|
|
昭和54(1979)年 8月撮影。
屋根に積もった雪が、自然落下する工夫の改装です。 |
|
昭和59(1984)年11月撮影。
この年、お堂の本格改装を小出氏有志の寄進で進められて、集落の皆さんを招いて祝った完成の宴です。 |
|
|
4月18日「観音さま」 |
この日は、「観音さま」に集落の皆さんがお参りをして、小出氏達も共に一同に会して、手づくりのご馳走を持ち寄ってお祝いをしています。
近年は、この日を「もぐさ観音」と呼ぶようになりました。
かつては、この祀り日を「観音さま」の日と呼び、小出氏系の家々がボタモチや手づくりの食べ物を持ち寄り、そこに村の衆が三々五々、寄り集まってお祝いをしていました。
|
|
この時代、子供たちは学校帰りに立ち寄り、ボタモチをもらって食べられるのが、季節の風物詩で楽しみの一つでした。
更にその昔は、観音さまに、ただお参りをするだけでした。
食べ物やご馳走で祝いの集まりが行われもようになったのは、かつて、村長選挙が行われる時代になり、候補者が観音さまに酒を供えたのが始まりと伝えられています。 |
|
|
自分史から |
平成3(1991)年に発行された、上樽出身者(小出氏系当時73歳)の自分史には「観音堂」について、次の記述があります。(原文のまま。)
*守り神として奉じられて来た観音様は信濃の国田上の分神とのこと 言葉習慣
なども大鹿以北と違う等何か縁があるように推察している。 |
|
|