ユキツバキ 私【オジ(ryuzi)】の幼かったころ、少年のころのふる里「樽本」を日記でつづります。 遠い昔の記憶を想いおこしながら、時代もテーマも
特にすじ立てなくご紹介します。

また、暮らしの話題、ふる里への思いなども、折々にご紹介いたします。

原風景、歴史や伝統、樽本温泉、暮らしなど、近未来の樽本に少しでもお役に立てればと思い、また、夢もこめて・・・。

併せて、今は神奈川県に住み趣味ですべてを手造りした野趣の庭
山野草、庭木、小さな生きモノ なども、写真でご紹介します。

 ・2011年からの日記はこちらをクリックしてください。
 ・最新の日記はこちらをクリックしてください。


            【 2010年弥生3月1日 樽本のオジ(ryuzi)
 
<<前のページ | 次のページ>>
2010年7月31日(土)
ハチとり

 
 先回 (7月27日) の日記 「ジバチ」 の、地中に作られている巣をとる際に苦労
 した子供のころを想い起こしてご紹介します。

 
 蜂は、その巣などに悪さをしない限りは、決して刺すことはありません。
 ただし、巣が外的に襲われれば容赦なく全軍で襲ってきます。
 
 刺されるところは主に 「頭髪の中・眉毛まわり・衣服のすき間」 などの、黒い
 部分が狙われました。

 顔の半面を、ダンゴのようにはらして登校したことが幾度かありました。
 
 いつのころからかセルロイドをいぶして、その煙を地中の巣の入り口から 
 「吹き込む」 と、またたく間に蜂は仮死状態になる知識を得ました。

 そのすきに土を掘り起こして、巣と蜂を取り出しました。
 
 当時、身近のセルロイド製品は、歯ブラシの握り部分とノートの下敷きぐらい
 でした。
 まだ使える歯ブラシのブラシ部を包丁で削り取る、また、下敷きを無理に割る、
 などあたかも自然破壊をよそって 「蜂とり」に使った記憶があります。

 
 このような浅い悪知恵は、今、思えば親たち大人はお見通しであったでしょう
 けれど、叱られた記憶のないのが不思議です。

 
 【 写真は、今年も庭で悪さを始めた幼い昆虫、左はカマキリ、右はバッタです。】
 
 

2010年7月27日(火)
ジバチ

 
 樽本の方言で、クロスズメバチのことを 「ジバチ」 と呼んでいました。
 隣の長野地方では 「スガレ (リ)」 と呼び、特産品の珍味佃煮 「蜂の子」 が
 有名です。

 
 ジバチの巣は、田んぼや畑などの土手の地中に作られていて、子供のころ 
 「ハチとり」 と言って、その巣をとって蜂を飼って楽しみました。

 
 地中の巣は、秋、稲穂がたれるころ最大になりますので、「蜂の子」 をとるには
 この時期までジーット我慢して見守っていました。

 
 ジバチを飼って楽しむには、働き蜂が数十匹までの、あまり巣が大きくならない
 夏までが勝負でした。

 
 地中の巣からの出入り口で 「セルロイド」 を燃やし、時間を見計らって土を掘り
 起こす気分はスリル満点でした。

 
 【 写真は、樽本から移植したギボウシ (樽本方言で 「コーレッパ」 ) です。】

2010年7月22日(木)
修学旅行

 
 樽本には四つの集落 (上樽本 中樽本 下樽本 土路) がありまして、s20年代
 には小・中学校は共に本校 (樽本地域) と分校 (土路地域) がありました。

 
 学校行事などは互いに交流をして行っていました。
 交流行事で特に楽しかったのは、本校と分校が合同での中学の修学旅行でした。
 
 修学旅行は、毎年1〜3年生の全生徒が一緒に参加しての旅行でした。

 s20年代中ごろ、中学1年生になった年の事でした。
 楽しみにしていた旅行日程が、延期〜延期が続き (記憶では) 結局は中止に。
 
 目的地の、日本海に面したその町の近くではやっていた伝染病がおさまらない、
 との先生の説明を幾度となく歯がゆい気もちで聞いていた記憶があります。

 
 s20年代は夏になると、赤痢などが日本の方々ではやっていました。
 
 写真は、翌年、中学2年生での修学旅行で、新潟市の近く 「弥彦神社」です。
       本校と分校の1〜3年生全員参加の旅行でした。
       写真の中ほどに写っています。

 

2010年7月18日(日)
ドジョウ捕り

 
 7月14日の日記 「お盆が近づくと。」 でご紹介しました 「ドジョウ捕り」 は、
 お盆の里帰り客への、当時の私にできる精一杯の歓迎準備でした。

 
 「米ぬかと煮干」を、布切れで巾着状にシッカリと包みます。大きさは卵ほど。
 それを 「竹づつ」 に入れて水中に沈めると、にじみ出る匂いにひかれてドジョウ
 が集まってくる仕掛けです。

 
 夕方、棚田の中で大きめの田んぼを選び、その上段の田んぼから水が流れ
 込む近くの水中に 「竹づつ」を沈めおき、翌朝、朝めし前に回収します。

 
 当時、どこの田んぼにもドジョウが生息していましたので、毎朝、一つの竹づつ
 で10匹ほど、時には大漁の日もありました。


 捕れたドジョウは、しばらくの間バケツで飼ってドロはきをさせていました。
 
             【写真は、昨日、野趣の庭に飛来したアゲハチョウです。】
     

2010年7月15日(木)
この先1年へ。

 
 このHP 「春はうららの樽本」 は、7月の今月、たくさんのご支援をいただいて
 2年目に進むことができました。

 
 この1年間、アクセスしてくださった多くの方々、そしてHPづくりのイロハから
 ご指導をいただいているパソコン教室
 「PCスタジオWith」 の先生、本当に
 ありがとうございます。

 
 この1年間は、ふる里 「樽本」 を一人でも多くの方に知っていただきたくて、それ
 一途に進めてまいりました。

 
 これから先の1年はさらにHPを充実させて、樽本が近未来に向けて前進する
 お役に立てればと願っています。

 
 まだまだ、ご紹介したい 「樽本」 が数々あります。

 初めて樽本を知ってくださった方々、そして樽本ご出身の方々、ふる里への
 新しい思いづくりに役立てればと願っております。

 
 この先も、ご支援どうぞよろしくお願いいたします。
 
 【写真は、野趣の庭に咲くガクアジサイとノウゼンカズラです。】

 

2010年7月14日(水
お盆が近づくと。

 
 かつて樽本のお盆は、ふる里を離れて遠くで暮らす人も帰ってきて、家族全員
 がそろって過ごす一年を通してもつとも楽しい大きなイベントでした。

 
 私の生家ではスイカ、マクワウリ、トウモロコシなどの生育を色々と工夫して、
 その日に間に合わせる努力を親たちが一生懸命にやっていました。

 
 そのような中で都会から帰ってくる兄たちへの歓迎準備を、私なりにやっていた
 のは田んぼでの 「ドジョウ捕り」 でした。

 
 昭和20年代の田んぼは今で言う 「有機栽培」 で、化学肥料などはほとんど
 使っていないため、ドジョウやタニシがたくさん繁殖していました。

 
 写真は当時のものと同じ型・竹製の、ドジョウ捕り用のワナ 「竹づつ」 です。
 川釣りにこっていた、若いころに買い求めたものです。

2010年7月11日(日)
豪雪に耐える家

 
 季節外れですけれど、豪雪と戦う樽本の一端をご紹介します。
 写真は、昔、若いころに写しておいた私の生家です。
 
 左: s36(1961)年8月の撮影。このHPでもご紹介しています。
 中: s33(1958)年3月初旬の撮影。生家玄関先の積雪風景です。
 右: s54(1979)年8月の撮影。この家屋は、今はありません。
 
 温暖化と言われる近年でも、樽本の冬は1〜2mの雪が積もります。
 かつては中央の写真のように、軒下までの積雪が毎年のことでした。
 
 写真左の茅葺 (カヤブキ) 家屋の時代では、屋根の積雪が一日で1m近くになる
 ことも度々で、大人たちが屋根の雪おろしを何日も続けていました。

 
 地域の方々の高齢化か進むにつれて、「雪おろし」 は大きな負担になっていき
 ました。

 右の写真は、その改善策として行われた、積もった雪を自然落下させる工夫で
 した。

 
 さらに、このころ茅葺職人の減少、素材の 「カヤ」 調達難なども重なって、屋根
 の全面カバー化を後押ししていました。

 これによりカバー化して数十年を経過した今も、樽本の家々は豪雪にもしっかり
 と耐え抜いています。 


2010年7月6日(火)
里帰りしてきました。

 
 昔あった樽本の、村役場の古い書類を見せていただきに里帰りしてきました。
 
 その書類が保管されている建物が、老朽化で近く取り壊されることになりました。
 そのため 「書類を仕分け」して、将来ともに保存するか否かの選別のお手伝い
 をさせていただきました。

 
 樽本ご出身で、ふる里の歴史を永く調べておられる在京のお二人と共に3人で
 まいりました。

 書類の中には、大正時代の貴重な記録をはじめ、数多くの歴史資料があり
 ましたので、その保存をお願いしてまいりました。

 
 この調べごとのあと、お二人とは別れて、私は身内の法要に出席して4日夕刻
 に帰ってきました。

 
 このたびの里帰り中に樽本で写した、想い出深い子供のころオヤツにした
  「木の実」 をご紹介します。

 
 ・写真の左: 「 クワの実 」。 6月13日の日記でもご紹介しております。
 ・写真の右: 「 スグリ 」。 赤く色づくと甘酸っぱい食べ頃になります。
 

2010年6月29日(火)
キンぬぎ (脱ぎ) の日

 
 樽本のしきたりで7月1日は 「キンぬぎ (脱ぎ)」 と呼ぶ、農作業を村をあげて
 休む休養の日でした。

 旧正月や旧盆と同じように、ひと月遅れの 「ころも (衣) がえ」に相当します。
 
 「衣」 を 「キヌ」 とよんだ大昔からの習わしで、「キヌ (衣) を脱ぐ」 が語源では
 ないかと推察しています。

 
 田植えも終わり季節の区切りがついたことで、餅をつき家族みんなで労をねぎら
 いあう日でした。

 
 このような公休日を、樽本では総称して 「アスビ (遊び) 日」  と呼んで、農繁期
 でも子供たちが大人と交流できる数少ない日でもありました

               ----------------------
 
 <里帰り>
    7月1日から、今年2回目の里帰りをしてまいります。
    このため少しの間、更新をお休みさせていただきます。
    よろしくお願いいたします。
 
             【 写真は、庭のネジバナです。花を主役にして写しました。】

 

2010年6月27日(日)
トンボで遊ぶ。

 
 6/25の日記で 「捕まえた」 トンボで遊んだ想い出をご紹介します。
 いま思えば、少し可哀そうなことをしたと・・・。
 
 シオカラ トンボを 「トンボ捕り」 のクモの巣から外し、その足の一本に 「木綿糸」
 を結び付けます。

 この糸の結び付けが、けっこう難しい作業でした。
 
 腰を下ろし両足を前に出して座り込み、左右の親ユビを合わせます。
 トンボを上向きに持ち羽を両親ユビで挟み、嫌がる足の一本に素早く・・・でした。
 
 長い木綿糸を引きながら頭上高く飛ぶトンボ。楽しい遊びの一つでした。
 
 同じ遊びでも 「シオカラ」 よりはるかに上空を飛行する習性の 「オニヤンナ」 
 では、その楽しみはまた格別でした。

 
 【 写真は、樽本のオニヤンマです。お盆の里帰り、2007年8月15日の撮影です。】

2010年6月25日(金)
トンボ捕り

 
 トンボが飛び交う季節になりました。
 この時期になりますとトンボ捕り具を、手づくりして遊んだs20年代、子供のころ
 を想い出します。

 
 写真の右: 当時の 「トンボ捕り」 を、三分の一ほどのサイズで作って見ました。
 
 子供のころに作ったものは三角の一辺が25cm前後、材料は主に枯れたススキ
 の茎でした。

 それを雑木の小枝を1〜2mの長さに切って、その先にくくり付けました。
 
 この三角部分に、「クモの巣」 を幾重にも重ね付けます。 
 クモの巣は、家の軒下をひと回りすれば何個でもありました。
 
 主に 「シオカラ トンボ」 をねらって、道端などに休んでいる真上から、この
  「トンボ捕り」 を一気に重ね 「くっ付け」 捕まえて遊びました。

 
                   【 写真の左は、庭に飛来したラブラブのシオカラ トンボです。】

2010年6月21日(月)
「 ふれあいの旅 」

 
 樽本温泉 「ふれあいの旅」 を、このたび新たにスタートしました。
 
 このHP 「春はうららの樽本」 をはじめて、今月で満1年になります。
 それに先立って、自分の生まれ育った 「樽本」 をもっと知りたくて、2006年から
 HPづくりを目指した取材をはじめました。

 
 2年間、里帰りを繰り返して樽本を守ってくださっている、諸先輩 (≒30人) から
 お話しをうかがいました。

 90歳を最高齢に総平均で82歳の方々で、皆さんが私の幼年期を覚えていて
 くださいました。

 
 樽本への里帰り取材の旅は、昨年も続けて今年も5月から再開しました。
 この 「これまで」 と 「これから」 の、ふる里ふれあいの旅をご紹介させて
 いただきます。

 ご意見、ご感想、ご提案をお寄せください。
 
 【 写真は、今年の梅です。30数年前、次女誕生で植えた庭の野梅(白花)です。】

 

2010年6月17日(木)
(続) ホタル

 
 写真は、左からタニシ、カワニナ、カタツムリです。
 カタツムリは陸生ですがタニシとカワニナは水生で、共にかつては田園風景の
 里や山里などで、ごく身近に見られました。

 
 生息環境では、タニシは田んぼなどの溜り水場を好みますが、カワニナはその
 田んぼに水を引き込む導水路や緩やかに流れる小川などを好みます。

 ホタルの幼虫は、このカワニナだけを餌にして成長しています。
 
 樽本は近年の過疎化で、休耕田が多くなり導水路も閉ざされて、カワニナの
 生息地域がすっかり減ってホタルの繁殖も困難になってしまいました。

 
 豊かな水に恵まれた樽本に、いつの日か、ふたたびホタル飛び交うことを・・・。
 ご意見、ご感想ご提案などお寄せください。
 
                  【 写真のカワニナ、貝ガラのサイズは31mmです。】

2010年6月15日(火)
ホタル

 
 この季節になりますと、子供のころの 「ホタル狩り」 を想い出します。 
 生家の前には、一段と下がった地形で 「メエザワ (前沢)」 という川がありました。
 

 初夏のころから天気のよい日、あたりが暗くなりかけると幾匹ものホタルがその
 川沿いを飛び交っていました。

 
 その川沿いには、人がすれ違うのも苦労するほどの村道が通っていました。
 その道を夕食のあと、ロウソク提灯 (チョウチン) を手に 「ホーッ ホーッ ホータル
 こい・・・」 と、歌いながらホタル狩りを良く楽しんでいました。

 
 樽本のホタルは、近年、見かけるのが珍しいほどに少なくなったと聞いています。
 
         【 写真は、庭のクチナシの花です。いい香りを放しはじめました。】

2010年6月13日(日)
山の幸 「クワの実」

 
 生家では、s40年ごろまでカイコ (蚕) を飼っていました。
  
   ・このHPでのご紹介: 「昔のくらし」 → 「カイコ (蚕) を飼う」 

 
 大人たちは朝の暗いうちから朝めし前の仕事で、カイコの餌 「クワ (桑) の葉」
  とりに山に出かけていました。

  s20年代、子供のころの想い出です。
 
 初夏、桑の実は始めのうちは赤く、やがて熟すと黒くなります。
 朝、桑の葉とりの山仕事を終えて帰ってくる親が、時に桑の実を土産に採って
 きてくれました。

 
 熟した桑の実を朝食前に食べた時の、淡く甘いあの味の記憶が今も残ります。
 中には未熟な赤い実も混じっていて、これがまた酸っぱいのですが一緒に
 ほお張っていました。

 
 食べた後、指や口まわりが赤黒く染まり、その色がなかなか落ちないのですが、
 美味しさには勝てませんでした。

 
          【 写真は、庭のフサスグリです。今年のフサは小ぶりでした。】

2010年6月11日(金)
庭の立ち木

 
 子供のころに聞いていた、大人の会話を二つご紹介します。
 
 ・女の子が産まれたら、「桐 (キリ) の苗木」 を一本植えると良いお祝いになる。
  その子がお嫁に行くころには、桐は成長して嫁入用の 「桐タンス」 がつくれる
  ようになると聞いていました。

 
  いま思いますと、桐の木は他の樹木に比べて、「生命力が特に強く成長も実に
  早い」 ことにあやかった願い事であったように思います。
 
 ・桐の木などを庭先に植える家もありましたが、その木が成長して屋根の高さを
  越えると 「その家に病人が出る」 から、芯を摘めた方がいいと良く聞きました。
 
  昔の 「茅葺 (カヤブキ) の農家」 は、窓は小さく、窓の数も少なくつくられて
  いました。

  庭の立ち木が大きくなって枝葉を伸ばすと、家は日陰になり風通しも悪くなり
  不健康、との教訓であったように思います。
 
  【 写真は、庭のガクアジサイです。晩秋まで色を変えながら花が残ります。】

2010年6月9日(水)
(続) フナ釣り

 
 6月7日の日記でご紹介しました 「フナ釣り」 で、子供たちの釣りが大きく転換
 するある時期がありました。

 
 昭和20年代、樽本にも何軒もの 「疎開ご家族」が生活されていました。 
 そこのご主人の一人が釣り好きで、私たちと 「赤池にフナ釣り」 に行った時の
 ことでした。

 
 長い本格的な釣竿 (ツリザオ) を弓状にしならせて、水面に 「仕掛け」 を大きく
 振り込む姿は今も忘れられない衝撃でした。


 綺麗に色塗られたウキはハシ (箸) ほど長く、釣り糸 (道糸) の先には2本針、
 などなど全てが初めて見る仕掛けでした。

 
 見事な 「合わせ」 でフナ二匹を同時に釣り上げるなど、当時の子供たちには
 考えられない光景でした。


 釣り針を除けば、その他の用具は全て手づくりの時代でしたが、その後は子供
 なりに色々と工夫をして楽しんでいました。

 
                   【 写真は、咲き始めた庭のハナショウブです。】

2010年6月7日(月)
フナ釣り

 
 昭和20年代、「上樽本」 の子供たちの釣りは、HPでご紹介の 「アカイケ(赤池)」 
 のフナ釣りがほとんどでした。

   
   ・当HPでご紹介: ムービー 「空からご案内」 → アカイケ(赤池) 

 
 赤池までは子供の足で歩いて≒1時間、途中には沢登りに似た岩肌の道もあり
 ました。

 沢の絶壁からは鉱泉が湧き出ていて、岩肌に幾筋もの白い硫黄質が帯状に
 なっていました。

 
 釣り用具は、ハリスなしの釣り針に白い木綿糸を直結、枯れたススキの茎10cm
 ほどをウキ (浮き) にして、サオは真っ直ぐに伸びた雑木の小枝を現地調達。

 大よそこのような一式でした。
 
 釣りに行く前日には家の周りの畑をほじくっり、釣り餌にするミミズを集めました。
 時には家の軒下に作られたアシナガバチの巣を採り、蜂の幼虫を餌にしたこと
 もあります。

 
 【 写真は、今年も咲いたホタルブクロです。 樽本から移植して根付きました。】

     

2010年6月5日(土)
(続) 手押し消防ポンプ

 
 5月29日の日記で、樽本で保存している昔の 「消防ポンプ」 をご紹介しました。
 あの時点では、消防ポンプ保存の先行きに不安があって、地元の奇特な方が
 何とかならないか検討を始めておられました。

 
 最近、新しい知らせが届きましたのでご紹介します。
 それによりますと、その方が地区の方々にお願いして個人で譲り受けて、地元
 に保存することになったとのことです。

 
 近日中にも知人の方々の協力を得て、保存場所を別の建屋に移されるそうです。
 さらにはポンプを修理磨きあげて、「樽本温泉」催事などの際に放水の実演を
 目指したい、との目標をお持ちとか・・・。

 
 この先の保管と活用について、ご意見、ご感想、ご提案などお寄せください。

        【 写真は、いま満開のザクロです。秋には赤く大きな実が熟します。】

 

2010年6月3日(木)
家畜との別れ

 
 最近、宮崎の家畜農家の方々が、涙を浮かべてTV取材に応える映像を見る
 たびに想い出すことがあります。

 
 昔、樽本の多くの家々で、農耕と穀物運びなどで馬または牛を飼っていました。
 生家でも私の幼い頃から馬を飼っていましたが、s20年代後半、馬を手放して
 牛に替えた経緯があります。( 3月7日の日記ご参照ください。)

 
 何年も家族のように暮らし一緒に働いてくれた馬は、バクロウ (馬喰) と呼ばれる 
 「専門業者」 に引き取られていきました。

 家中の者が庭先に立って馬の姿が遠く見えなくなるまで大声で、「アリガトウ、
 サヨウナラ」 と手を振り見送った記憶が、最近、幾度もよみがえっています。

 
 【 写真は、軒下で今年も咲いたサルナシです。実が成長して熟すと甘くなります。
  子供の頃、山の幸の一つでした。】


2010年6月1日(火)
カエルの子

 
 写真は、ガマガエルの今年の赤ちゃんです。体調は1cmほどです。
 
 ガマガエルが、春はやくに庭の池で産卵をしてしまいました。
 1mを超す長さに連なる卵は、その殆どは散歩コースにあります湿地水溜りに
  「お引越し」 をしてもらいました。


 池に少しだけ残した卵がオタマジャクシになり、成長して水中でやがて足が出て
 手が出て、いよいよ写真のように陸上生活にチャレンジを始めました。

 
 なお、「この子」 の卵の頃、また 「両親」 なども写真でたくさん記録していますが、
 ここでは・・・。

 

2010年5月30日(日)
ケガの想い出

 
 子供ののころ、遊びやイタズラでケガをするとオヤジに 「この親不幸モノが・・・」
  と叱られ、時には 「バカヤローッ」 と怒鳴られたこともあります。

 
 今の時代では考えられない反面言葉でした。
 親から授かった体を大切にしろ、とのしつけであったのですが自立心を芽生え
 さす言葉になっていたように思います。

 
 昭和20年代のことですがコマ、弓矢、竹トンボ、竹馬などを自分で作って遊んで
 いました。

 道具は、大人が使うノコギリ、ナタ、コガタナ(ナイフ)、錐(キリ) ぐらいでしたので
 ケガは度々でした。

 
 いつの頃からか、大きなケガでない限り 「親には隠し通す」 ようになっていました。
 親はまた、見て見ぬふりをすることで、子供の成長を後押ししていたのかも知れ
 ません。

 
 【 写真は、庭のユスラウメです。3月22日の日記の花がこのように実りました。】

 

2010年5月29日(土)
手押し消防ポンプ

 
 写真は、樽本に今も保存されている昔の 「手押し消防ポンプ」 です。
 昔は、集落高台の 「火の見やぐら」 のもとに日常保管されていました。

 かつて集落で発生した火事の際、この消防ポンプが大活躍した歴史ある優れ
 ものです。

  ・当HPでのご紹介:  「昔のくらし」 → 「火の見やぐら」
 
 昔は村の各家長男が消防団員となり、日常定期的に整備と消防訓練をしてい
 ました。

 火の見やぐらの 「ハンショウ (半鐘)」 の音を合図に団員が集結して、この
 ポンプでの放水訓練を子供のころ遠くから羨ましく眺めていました。

 
 今は、この消防ポンプも保存されている地区共有の施設維持が集落の負担に
 なっていて、その建物と共にポンプの 「保存維持」 も困難になりそうな状況と、
 先の里帰りで聞きました。

 
 地元の奇特な方が後世に伝え残せないか現地で、最近、たった一人で検討を
 始めたとも聞きます。

 現地支援の力になれそうな知恵やご提案、ご意見ご感想など、お寄せいただけ
 ませんか。お待ちいたします。

 
       【 写真は、H19(2007)年11月、地区の 「共有施設」 で撮影しました。】
 
 

2010年5月28日(金)
田植え休み

 
 先の里帰りで通った関山・新井のあたりでは、田植えはすでに終えていました。
 そこから昔は四里半 (18km) と言われた山間地 「樽本」 では、今が田植えの
 最中です。

 
 小中学生のころ、この時期になりますと学校は一週間ほどの 「田植え休み」 に
 入りました。

 樽本の全戸が稲作農家でしたので、子供も田植えを手伝うための休みでした。
 
 大人たちは 「ナワシロ (苗代)」 で、苗を採り一握りほどに束ねて集め置きます。
 その苗束を子供たちは田んぼに運び、ほど良い間隔で投げ入れる仕事が主で
 した。

 中には乳児をオブって、大人の手伝いをする子供もいました。
 
 田んぼに入った大人たちは、投げ入れてある苗束を拾いそれを一本一本ほぐ
 して、丁寧に田んぼに苗を手植えしていました。

 
 【 写真の右は、ハナイカダです。先の里帰りで 「マガクシ」 山頂での撮影です。
  写真の左は、何年か前に樽本の裏山から移植して、今年も庭で咲いてくれた
           「サイハイラン」 です。】


2010年5月26日(水)
里帰りしてきました。

 
 写真は今回の里帰りで行った、樽本の史跡 「マガクシ (馬隠) 」 のくぼ地で
 写した 「エンレイソウ」 です。

 マガクシの原生林と歴史跡は、当HPでご紹介しています姿のまま変わりありま
 せんでした。

 
 20日と21日は 「赤倉温泉」 で、ふる里の小中学校時代の同級会でした。
 22日は、知人をご案内して6年ぶりで 「マガクシ」 現地をつぶさに歩いてきました。
 23日は、朝からの強い雨風に邪魔されて外歩きができず、樽本温泉で休養と
       在村の方々へのご挨拶。

       夜には 「斑尾チームNP」 の方々を訪ねて、意見交換をしてきました。
 24日朝、斑尾高原を発って帰ってきました。
 
 このたびのレポートは、この先、折りにふれて記させていただきます。
 なお 「斑尾チームNP」 につきましては、インターネットでご覧ください。
 
  「 マガクシ 」 は、当HPの以下でご紹介しています。

   ・「 歴史の跡 」 → その1 → マガクシ
   ・「 空からご案内 」ムービー → マガクシ

2010年5月17日(月)
里 帰 り

 
 写真は、今年も咲いた 「ヤマボウシ」 です。
 樽本では、「イツキ」 と呼んでいます。
 「樽本峠」 の山林から、1メートルにも満たない幼木を移植して育てました。
 今は成長して、屋根の高さを大きく越えています。
 
 街路樹などの 「アメリカ ハナミズキ」 と良く似ていますが、イツキは日本の純粋 
 「ハナミズキ」 です。

 秋には赤い実が熟して、食べると甘く子供のころ好んで食べました。
             ---------------------
 
 ふる里の小・中学校時代の同級会参加にあわせて、今年初の里帰りをして
 まいります。

 このため、一週間ほど日記をお休みさせていただきます。
 よろしくお願いいたします。< ryuzi >
                          ----------------------

2010年5月16日(日)
カエルの大合唱

 
 この季節になると樽本では田んぼの土おこしと、それに次いで水を張って 
 「しろかき (代掻) 」 が始まります。

 
 この水が張られた田んぼを待っていたかのように昔は、カエル、ドジョウ、ヤゴ
 などなどが一斉に活動を始めていました。

 夕方には、カエルたちが 「ケロケロ」 と鳴き出していました。
 
 生家 (写真) 裏手の田んぼでは、更に夜になると数知れないたくさんのカエル
 たちが鳴き出して大合唱になり、その鳴き声が夜通し聞こえていました。

 今思えば耳障りなほどでしたが、当時はそれが自然の営みで気にはなりません
 でした。

 
 時が流れて近年は過疎化が進み、写真の田んぼの多くが休耕田になりかけて
 います。

 このために田んぼの多くは年中、水のない荒地になりすむ場がなくなったカエル
 たちは激減してしまいました。

 
 カエルたちにもう一度、あの大合唱の自然の営みを叶えさせてあげられる方法
 や知恵はないものでしょうか。

 
     【 写真は、s39(1964)年5月撮影の、生家と裏手につらなる田んぼです。】

2010年5月14日(金)
ドロクソーズ

 
 昔、斑尾高原と上樽集落のほぼ中間の山中に、微量の石油が湧き出ている所
 がありました。

 その原油を樽本では、「ドロクソーズ」 と呼んでいました。
 
 子供のころ、空き缶や空きビンを持って、その自噴原油を幾度となく採りに行き
 ました。

 特に秋の原油採りは、面白いように採れた楽しい想い出があります。
 
 自噴原油は水と一緒に湧き出て、ゆるやかに流れて川に合流していました。
 秋、ススキや葦の 「穂」 を数本束ねて持ち、湧き水の上層にある原油を静かに
 浸してすくい採りました。

 
 昨年 (2009年) 5月、近年の地域開発と昔をよく知る知人に案内していただき
 ましたが、道路の新設などで 「自噴地帯」 は無くなっていました。

 
 当HPのムービー、「空からご案内」 → 「滝の源流」 がその際の記録で、冒頭
 から数コマ先の道路の部分が 「自噴地帯」 と思われます。


                        【 写真は、庭で満開の三寸アヤメです。】

  

2010年5月12日(水)
金へんブーム

 
 昭和20年代の中ごろ、「金(カネ)へんブーム」 と呼ばれた時代がありました。
 金へん景気、特需景気とも呼ばれた時代で、その余波が樽本にもおよんで
 いました。

 中学1〜2年のころの記憶です。
 
 春、雪が溶けて遠くの町から樽本に通じる道が自由に歩けるころになると、
 「くず鉄買い人」 が村にやってきて 「壊れたナベ」 などありませんか、と訪ね歩い
 ていました。

 金属類なら何でも買いあさっていました。
 
 この時代にはまだ、当ホームページで紹介しています 「歴史の跡 その2」 →
  「石油採掘 」
、その跡地に金属パイプなどが置き去りになっていました。


 「くず鉄買い人」に、この在りかを好奇心から教えてあげた記憶があります。
  < 金へん景気: s25〜28年の朝鮮戦争による特需景気でした。>
 
                         【 写真は、庭で満開のクレマチスです。】

inserted by FC2 system