石油採掘 |
樽本には石油やガスが、微量自噴している所があって、昭和7〜8(1932〜33)年の頃から、専門業社によって石油採掘をしましたが、成功はしませんでした。
当時、国際情勢の急変で、石油輸入がひっ迫したために、国内各所で石油探しが活発になっていた時代でした。
上樽集落の西外れ崖下に、「弓掘り(カズサ掘り、とも)」と言われるヤグラを組み、大きな滑車に巻いたワイヤーの先には「ノミ」を取り付けた仕組みでした。
ヤグラの階段を登って滑車の中に4人ほど入って、コマネズミのように、踏み廻しながら300mぐらいの深さまで掘っていました。
後に10人ほどで足踏みする、「バッタリのような仕組み」に換えた時代もありました。
この時代、村の若い男性は青年学校や軍隊に駆り出されていたために、主に村の若い女性が人夫として働いていました。 |
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上樽での石油採掘に次いで、沼地域でも石油採掘が進められました。 |
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この地域には、昔から「*ドロクソーズ」と樽本で呼ぶ、原油が湧き出ていることから、鉱脈があると期待しての採掘でした。
大型モータを使った機械掘り、弓型の竹製のしなりを利用した手掘り、などでした。
写真は、当時の採掘現場事務所で、「信越石油鉱業旭*区事務所」とあります。
*ドロクソーズの語源:石油の自噴で「ドロが臭い」、ではないかとの説があります。 |
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水力発電隋道 |
昭和初期、中央電気工業(現 東北電力)によって、上樽「なぎの地区」に水力発電所を建設する計画がありました。
地形測量など進む中、昭和12(1937)年に始まった支那事変(日中戦争)、2年後に始まった第二次世界大戦による物資不足で、発電所の建設は中止になりました。
この計画で、唯一、実現した施設がこの写真で、半世紀をはるかに過ぎた今も現役です。
樽川橋から桶海(オゲミ)までの、約4kmの隋道(地下水路)造りが昭和10(1935)年から、4年をかけて完成しました。
当時、掘削機械のない時代でダイナマイトと手掘り、総工事費2万円との記録があります。
隋道は、標高約900mの山の直下を掘削する工事で、事前の測量をはじめとして、多くの難作業に村人も関わり、今も、その方々は樽本で生活をされています。
この工事によって一時期、樽本は、大いに潤うことができました。(昭和10年10月撮影) |
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2006年10月撮影。昭和14(1939)年に完成した隋道の、樽川口の取水水門の現在です。
東北電力(株)大谷第二発電所の施設で、今も日常のメンテナンスがされています。 |
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かつては、村の子供達が川で水泳をする、人気スポットでもありました。 |
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樽本峠用水路 |
上樽本は山間地形のために、稲田の耕作面積を増やすには、水利に限りがありました。
明治時代、遠くから用水路を開き水田耕作地を拡大して、村の米増産に大きく貢献した壮大な事業がありました。
この計画は、村の奇特な一人によって工事が始められて、後に、その意志を継いだ村の次の推進者らの努力で、10年の歳月をかけて成し遂げられました。
樽本峠には、この偉業をたたえた記念碑が建てられています。 |
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樽本峠の裏から水路を開きミネバタケ、フルギリ、オオソデ、オオスギダなどの地を水田耕作しようとするこの構想は、上樽本の木賀三四郎氏(第三・四代目の村長)によって計画され、私財を投じて工事が始められました。明治19(1886)年のことでした。
用水路造りは困難を極め、工事は長期化、私財の投入は限りなく続き、その意志は、次の推進者 関昌治氏(第九・十代目の村長)に引き継がれました。
明治26(1893)年頃のことでした。
山あいを通る地下(隋道)水路掘りなど、工事は更に困難を極め、関氏も個人資産を元手に不足する資金を調達しつつ工事継続して、明治29(1896)年、峠用水路を完成させました。
壮大な構想をなし遂げられた方々の写真は、今も、樽本温泉の施設に掲示されています。 |
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写真は、この偉業をたたえて樽本峠に建つ記念碑です。
用水路が完成して12年後の大正元(1912)年に、村の長老達の呼びかけで建立されました。
石碑には、総延長約1里(4km)、総工費約1千円とあり、この構想の先見の明に、村をあげて感謝の気持ちが記されています。 |
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記念碑は、97号線(飯山斑尾新井線)から数メートル北側、上樽集落の方向に向けて建てられています。
記念碑ができた当時は、飯山街道に続く用水路沿いに位置していましたが、97号線の道路整備の際に道筋が変わり、通りに背を向ける今の環境になってしまいました。 |
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石器 |
樽本地域で、石器の類と思われる出土物の言い伝えは、幾度となくありました。
その中の一部をご紹介します。 |
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写真はイメージです。
昭和20年代の中頃、上樽集落内の道端で拾った石が、このような形をした表面が滑らかで、子供の手の平に乗る大きさでした。
その石は、当時の「豊葦村立小学校」理科室に、長く標本展示されていました。
老朽化による校舎の建て替え、生徒の少数化による学校統合と続く過程で、その石は行方知れずとなり、今も、その行方を探し続けています。 |
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平成17(2005)年8月、上樽本のお寺(真宗寺)裏、地表近くから出土しました。
岩石と考古の、ご専門お二人さまの鑑定によれば、単品での判定は困難との結果でした。
自然石と加工石、の両方の可能性があり、同所あるいは樽本地域から、さらに幾つか、古代物の出土が確認されれば、再度の判定は可能と評価されています。 |
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佐久間 象山 |
土路集落には、信州 松代藩士の一人が、半年ほど過したと伝えられる記録が残されています。
その藩士は後に、徳川慶喜に開国論を説くなど、歴史に名を残した「佐久間 象山」でした。
写真は、佐久間象山の直筆と伝えられる、銘入りの書で土路集落に保存されています。
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書は約「1.5m×0.3m」のサイズで、「松柏霜後顕」、「象山平子*」と記されています。
近年まで土路集落の三軒が固有で、それぞれに飾られていた中の、現存する唯一の書です。
象山が土路集落で過した間に、家々で茶のみしつつ書き残した書、と伝えられています。 |
<佐久間象山と松代藩> |
信州 松代藩士 佐久間一学の長男。文化8(1811)年2月28日生まれ。
武士、兵学者、思想家で松代三山の一人。洋学吸収にも積極的。
後に、江戸で私塾「象山書院」を開き儒学を教え。
寛永年間、ペリー再来航時の事件に連座して入獄〜松代藩に蟄居。
蟄居を解かれた後、徳川慶喜に開国論を説くなどで、西洋かぶれの印象をもたれ、元治元(1864)年、京都三条で暗殺さる。享年54歳。 |
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