ユキツバキ 私【オジ(ryuzi)】の幼かったころ、少年のころのふる里「樽本」を日記でつづります。 遠い昔の記憶を想いおこしながら、時代もテーマも
特にすじ立てなくご紹介します。

また、暮らしの話題、ふる里への思いなども、折々にご紹介いたします。

原風景、歴史や伝統、樽本温泉、暮らしなど、近未来の樽本に少しでもお役に立てればと思い、また、夢もこめて・・・。

併せて、今は神奈川県に住み趣味ですべてを手造りした野趣の庭
山野草、庭木、小さな生きモノ なども、写真でご紹介します。

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            【 2010年弥生3月1日 樽本のオジ(ryuzi)
 
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2010年11月8日(月)
山野草

 
 立冬入り、寒さに耐えて咲く庭の季節の山野草を、写真の左からご紹介し
 ます。

 
 ヒメシャジン: 少し高めの山、岩場や草はらで見られます。
 今年、知人から譲り受けた鉢植えで、夏から今も一輪々々、と咲き続けています。
 根は、漢方薬になると聞きます。
 
 ツワブキ: 海岸などに近い岩場や傾斜地で、良く見かけます。
 黄色花の季節のイメージは春なのですが、ツワブキはこの時期には珍しく
 黄色花です。

 
 リンドウ: 秋を代表する花ですが、今年、夏の高温続きに負けて幾つもの株が
 早々と葉を落とし、花を付けず仕舞いでした。

 花は、日の出とともに開き、日暮れとともに閉じて朝を待ちます。
 
 ツワブキもリンドウも花は良く結実して、実生の株が年々増えています。

2010年11月6日(土)
小学生の社会科

 
 小学4年の孫から電話で、昔の生活用具を調べて絵に描く宿題の相談を受け
 ました。

 
 s20年代、子供のころ身近にあった生活用具を懐かしみ、少しずつ集めている
 その中から10品ほどを、メール添付写真で届けてあげました。

 
 写真はその一部ですが、それぞれ昔の、子供のころの記憶をご紹介します。
 
 天秤(ビン)はかり: 野山で採って乾燥させた薬草を、遠い町から買い集めに
 くる業者が使っていました。

 生家には米俵 (60kg) 級用の天秤ばかりもありました。

 五つ玉ソロバン: 主に戦前に使われた型。s20年代でも父親が囲炉裏ばたで
 はじいていました。

 「ニイチテンサクノゴ (二一天作五) 」と、使い方の説明を受けた記憶があります。
 
 ネズミ捕り: 「飼いネコ」 の捕獲量では間に合わない 「ネズミ害」 対策でよく
 使いました。

 捕獲用のおとりエサには、カボチャの種が最適でした。
 
 コテ: 先の部分を炭火で暖めて使っていた、ミニチュア アイロンです。
 別の使途では、スキー板の滑りを良くするために塗った 蝋 (ロウ) を、 溶かして
 付着させるのに囲炉裏でコテを熱くして使っていました。

 
        【 写真は、部屋の壁から外して並べ写した写真の一枚です。

2010年11月4日(木)
HPにメロディーと楽譜を。

 
 10月30日の日記で、樽本音頭の楽器演奏曲の完成をお知らせいたしました。
 そのメロディーと楽譜の各一部を、このHPで11月1日からご紹介をしています。
 
 s20年代の初頭に誕生して以来、譜面もなく歌い継がれてきた樽本音頭が、
 このたび、K.H氏 (富山県 高岡市在住) のご好意で、楽譜・演奏曲・CDを完成
 していただきました。 

 
 このHPトップページの 『樽本音頭』 から入っていただければ、歌声と併せて
 正調 樽本音頭とカラオケバージョンの各一曲が、お聴きになれます。

 
 これにより樽本音頭が広く親しまれ歌われて、後世に歌い継がれることを願って
 います。

 
 このたびの完成を機会に 「樽本温泉」 イベントの一つとして、樽本音頭の
 バンド合戦、カラオケ大会、のど自慢大会などが叶えられればと夢が膨らみます。

 
              【 写真は、このたび完成した樽本音頭のCDです。

2010年11月1日(月)
飼いネコ

 
 s20年代、子供のころ樽本の生家でネコを飼っていました。
 当時の飼いネコは、現代のペットとは大きく違って、ネズミを捕るという大切な
  「責任ある仕事」 を持っていました。

 
 お米、ヒエ、アワなどの穀物を年中保管しているため、ネズミは大敵でした。
 一方、ネズミにとって冬などは、特に最高の食料倉庫でもありました。
 
 当時、味噌汁をかけた 「ネコマンマ」 の具は、野菜が少し入っている程度。
 その 「ネコマンマ」 に満たされず、ネコはせっせとネズミを捕っていました。
 
 ネズミを捕ったと知らせ鳴くネコに、家族は 「良くやった」 とか 「良く捕った、
 偉いエライ」 と声をかけていました。

 まるで、良く働く家族の一員のように励ましていました。
 
 生まれた子ネコが大きくなり、捕ってきたネズミを子ネコに知らせる鳴き声は、
 独得の雰囲気がありました。

 
 さらに成長した子ネコが全て里子に出された後も、捕ってきたネズミを子ネコに
 知らせ呼び続けていた、あの切ない鳴き声は今も記憶にあります。

 
                【 写真は、庭で満開のホトトギスの3種です。

 

2010年10月30日(土)
樽本音頭の演奏曲

 
 樽本音頭の楽器演奏曲ができ上がりました。
 10月21日の日記でお知らせしました経緯のご縁で、見事なメロディーとリズムで
 完成していただきました。

 
 演奏曲は次の内容で構成しています。
    (1) 正調 樽本音頭
    (2) 樽本音頭 カラオケバージョン
 共に、音程の 「低めと高め」 の2曲があります。
 全曲、富山県在住のH・K氏のご好意により制作していただきました。
 
 また、正調 樽本音頭は、音程の 「低めと高め」 共に楽譜を完成していただいて
 おります。

 これらの一部は近く、このHPにページを新設してご紹介いたします。
 
            写真は、樽本音頭、4曲の編成を収録したCDです。
             背景は、正調 樽本音頭の音程別の楽譜です。

2010年10月28日(木)
ラジオ ドラマ

 
 【 ♪♪ みどりの丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台
        鐘が鳴りますキンコンカン メイメイ子ヤギも鳴いてます・・・】 
 
 数日前のことラジオから、聞くともなく耳に入った曲 (歌) が懐かしく、つい、つら
 れて口ずさんて゜いました。

 
 この歌は、s20年代に放送されたNHKの連続ラジオ ドラマ 「鐘の鳴る丘」 の
 主題歌で、私は小学生でした。

 
 60年の歳月が過ぎた今、突然、この歌をスラスラと口ずさんだことが刺激に
 なって、当時の懐かしい記憶がよみがえっていました。

 
 山間地の樽本での当時のラジオ受信は、雑音まじりの上に音量が大小に波うつ
 実に聴きづらかった記憶があります。

 
 ドラマの放送は毎日の夕方でした。
 大人たちは野良仕事で家にいない、子供だけで留守番をしている時間帯でした。
 
 日が短い季節では外が暗くなる時間で 「鐘の鳴る丘」 を聴きながら、寂しさを
 まぎらしていた忘れられないラジオ ドラマでした。

  
  << s22.7 〜 s25.12の期間、17時15分〜15分間の放送でした(ネット調べ)。 >>
 
                      【 写真は、今年も実った庭のザクロです。】

2010年10月25日(月)
樽本のしきたり

 
 樽本には、1000年の歴史が眠ると昔から伝えられています。
 その歴史を思わせる遺跡・遺構・遺物などの一部は、このHPでも紹介しています。
 
 一方、今に伝わる樽本の生活習慣などは、広く世の中の伝わる 「しきたり」 との
 違いが少なくありません。

 
 お雛さま、鯉のぼり、七夕、七五三、初詣、等などの年中行事は、樽本の生活で
 体験や見かけたことがありません。

 
 このような 「しきたり」 が、永い歴史ある樽本に根付いていない訳を、次のよう
 に語っていた方がいました。

 
 樽本には奥深い山村に似合わない 「上品さ」 を残す方言、また ゴリョウダ
  ( 御陵田or御料田 ) などの地名も今に伝わっている。

 
 一つの仮説として、昔むかしの樽本は 「 公家(クゲ) 」 などの貴人たちによって
 開拓史が始まったのではないか。

 
 その貴人たちが山奥に移住するには何か 「目立ちたくない」 訳があって、伝統
 を重んじながらも 「 華美なことは慎む 」 生活をしていたのではないか、と。

 
 このような仮説にロマンを感じるのは私だけでしょうか。
 
        【 写真は、今年も庭で実ったウメモドキムラサキシキブです。】

2010年10月23日(土)
ギンナンひろい

 
 近くの公園に、足の踏み場もないほどのギンナンが落ちていました。
 この時期になると、s20年代、子供のころの 「ギンナンひろい」 を想い出します。
 
 写真は、このHPで紹介している上樽本のお宮ご神木の大銀杏 (オオ イチョウ) 
 で、毎年たくさんの実をつけました。

 
 その実が秋の紅葉の始まりと共に落ち始めて、近所の子供たちが、毎朝、誰
 よりも先にと 「ギンナンひろい」 を競いました。

 
 登校の前、朝メシの前、としだいに早まる競争は毎年のことでした。
 正月料理などの一品として、「ギンナンひろい」 は子供たちの役割でもありました。
 
 この大銀杏の樹形が、生家から良く見える近い距離にあって、実が落ちつくす
 ころには初雪が、すべて落葉すると根雪が降る、と良く聞かされていました。

 
 なお、樽本ではギンナンをただ 「イチョウ」 と呼んでいました。
 
                         【 写真は、2007年の撮影です。】 

2010年10月21日(木)
樽本音頭

 
 s20(1945)年代の初頭、「木賀長治氏」 によって樽本音頭が作られたいきさつ
 は、このHPトップページで全詞・歌声と共に、ご紹介しています。

 
 以来、半世紀を過ぎた今も樽本音頭は、お盆や祭り各種の催しを盛り上げるに
 は、欠かせない村歌となって歌い継がれています。

 
 若い世代も一緒になって、催しの席などで歌いながら伝承されてきました。
 そのふし回しや間合い取りなど、楽譜のたぐいは全く残されていません。
 
 その樽本音頭を継承してくださっている樽本の皆さまも、今は、過疎化と高齢化
 が進み歌える方が少なくなっています。

 
 このたび音楽が趣味で若いころから各種の楽器に親しまれている方との、ご縁
 を得て樽本音頭の楽器演奏曲の制作をしていただくことになりました。

 
 その方のありがたいご好意で、このHPにあります樽本音頭の 「歌声」 をもとに、
 進めていただいています。

 その演奏は、このHPでいずれご紹介いたします。
 
  【 写真は、実生が成長した幹に甘柿を接ぎ木した、庭の今年の柿です。】
 

2010年10月14日(木)
月下美人

 
 鉢植えのサボテン 「月下美人」 が、今年2回目の花を開きました。
 写真左のツボミは昼間の1時半ごろ、満開の花は夜9時過ぎの撮影です。
 
 大輪の花から漂う芳香は、いずれの香水にも劣らないと言われるほどです。
 写真の花は、最大径≒20cm、花の全長≒45cm、茎の丈は≒2m超あります。
 
 月下美人のツボミは夕暮れころからふくらみ始めて、夜9時ごろ満開になります。
 その花も、翌朝、明け方には終えてしまう一夜花で、まさに美人薄命のたとえ
 代表花の印象さえあります。


  

2010年10月12日(火)
信越線に乗って。

 
 写真は、JR 信越本線 新井駅の改札口と上りホームです。
 伯父の50回忌法要を終えて、その翌日 (11日) の帰途に発車待ちの際に写し
 ました。

 
 このたびは、この路線と駅を利用しました。
 s20年代からの想いから、信越「本」線は何ともなじまず、つい 「信越線」 となり
 ます。

 
 これまでに、ご縁を得ました法要は30回忌まででした。
 このたびのご縁、50回忌法要では初めて知ることが幾つかありました。
 
 その一つ、仏壇にともされるロウソクのロウ (蝋) の部分が 「朱色」 でした。
 聞きますに 「朱ロウソク」 と呼び、「主に50回忌などのおめでたい法要に使う」
  との事でした。

 
 来春、米寿の祝いを迎えられる88歳の伯母との再会では、s20年代の想い出
 話しなどで実に懐かしい一日を過ごさせていただきました。

 
 雨と低温の前日とは打って変わり、法要の当日は快晴と夏日を思わせる一日
 でした。 


2010年10月7日(木)
カナリヤ

 
 s20年代の後半、樽本での子供のころ、カナリヤを飼っていました。
 中学2年で樽本を離れて転校上京するまで、ズート飼い続けていました。
 
 当時の樽本は車も入れない奥深い山村でしたが、15Km(直線) ほど離れた
 旧新井市 (現 妙高市) に住む叔父 (母の兄弟) から譲り受けました。

 
 当時、カナリヤはアメリカなどに輸出する、ドル外貨稼ぎの生きた商品の一つで
 あったと聞いていました。

 叔父は数多くのカナリヤを飼って、その輸出をしていました。
 
 幼いころ農閑期に、母に連れられ叔父を訪ねカナリヤを見るのが楽しみでした。
 当時の新井市は樽本から見れば、まるで都会の印象であったことが忘れられ
 ません。

 
 叔父に頼み込み、ヒトツガイ (オスとメス) のカナリヤを譲り受けたのが小学
 高学年のころであったと思います。

 叔父の助言を得ながらの飼育成果で、成人しても趣味として続けていました。
 
 その叔父が亡くなって既に半世紀が過ぎて、今月 「50回忌法要」 が旧新井市
 で営まれます。

 10月9日に発って、10日の法要に遠い遥か昔を偲んで参列して参ります。
 
     【 写真は、周りに素敵な香りを放っている庭の キンモクセイ です。】

 

2010年10月5日(火)
栗ひろい

 
 栗が売り出される季節になると、子供のころの山林での栗ひろいを想い出します。
 
 奥深い山村の樽本では、山の自然林に生えた栗の木が実をつけて、毎年、
 秋にはその恵みをたくさん落としてくれました。

 
 村をとり巻く山と自然林のすべては、その地主 (個人所有地と村の共有地) が
 ハッキリとしていて勝手に樹木の伐採などは決して許されません。

 
 ただ、毎年、その山が生み出す自然の恵み (例:栗の実など) は、村の人であれ
 ば誰でもひろえる暗黙の了解がありました。

 
 栗の大木がある山林、どの栗の木の実が大きいか小さいか、などの情報は
 村の子供たちには知れ渡っていました。

 
 山での栗ひろいは、毎年、子供たちの間では競争と自慢ばなしの楽しみに
 なっていました。

 栗の実が熟して毬栗 (イガグリ) が割れ出す頃合いを調べて、ひろいに行くのが
 楽しみでした。

 
 ひろってきた栗を囲炉裏 (イロリ) の灰の中で焼いて食べた味、ゆでてもらって
 食べた味、また、ゆで栗を乾燥させた冬の保存食の味、などなど今も記憶に残り
 ます。

 
     【 写真は、霜が降りるころまで咲き続ける庭の フウチョウソウ です。】
 
 

2010年9月29日(水)
アマ柿・シブ柿

 
 樽本の家々の周りには、それぞれに大きな柿の木がありました。
 大昔の深刻な飢饉 (キキン) の体験から、「干し柿」 にして保存食にする生活の
 知恵であったのかも知れません。

 
 生家にもかなり大きなシブ柿の木があって、毎年 「干し柿」 を作っていました。
 ただ、アマ柿の木がなかったために子供のころ、アマ柿のある友達の家に遊び
 に行って、協力しながら竹竿を使ってもいで食べたことが何回もありました。

 
 大人からは、柿の木には決して木登りするな、ケガをすると注意されていました。
 柿の木は硬く、小枝は折れ易いことからの注意でした。
 
 アマ柿は保存食には向かないため、もっぱら落葉前に食べつくしていました。
 シブ柿で作った干し柿は、冬のスキー遊びあとなどのオヤツに、コタツで良く食べ
 ていました。

 
 忘れられないのは、オヤジがシブ柿からシブ抜きして食べさせてくれた味です。
 夜、茶釜風の容器にぬるま湯と柿を入れて囲炉裏 (イロリ) のすみに置き、何や
 らをすると翌朝には美味しいアマ柿になっていました。


         【 写真は、季節外れに咲いた庭のホテイアオイ (水草) です。】 

2010年9月27日(月)
ナシひろい。

 
 生家の近くを通る細い道ぞいの家に、大きな梨の木がありました。
 その家の二階を越す大きさで、幹の径が40〜50cmほどはあったと思います。
 
 子供のころ、その木になるナシをうらやましく眺めらがら、成熟して甘味が増す
 時期を心待ちにしていました。

 
 台風などで落ちたナシを拾うのはオトガメなしでしたが、好天の朝ほど梨の
 木の下、道ばた草むらでナシを拾うことができました。

 
 この日記 (3月14日付) で、村の中を流れる川岸の大木のウロ (空洞) に
  「ムササビ」 が棲みついていたことをご紹介しました。

 
 その梨の木は、途中の大木を経由すればムササビが飛行して到達する距離に
 ありました。

 ナシが甘味を増す時期には、その木はムササビの餌場になっていました。
 
 朝、その木の下にはカジリ掛けのナシと共に、丸ごとのナシも落ちていることが
 あって、この 「オコボレ」 を拾うのが楽しみでした。

 
         【 写真は、満開近い庭のヒガンバナ (マンジュシャゲ) です。】

2010年9月25日(土)
イナゴとり。

 
 秋、朝夕がグット冷え込むころ登校前や週末の早朝に、子供同士が先を競って
 田んぼや畦道で 「イナゴ捕り」 をしました。

 s20年代、イナゴは貴重な蛋白源でした。
 
 イナゴ捕りは稲刈り少し前の時期の早朝、稲の葉で休むイナゴが冷え込みで
 動きがにぶります。

 それを素早く手づかみしました。
 
 もう一つは刈り取りが終えた田んぼには居場所がなく、イナゴは畦の雑草に
 集まります。

 イナゴは初霜と共に一生を終える、その少し前の早朝、畦道で多くの収穫が
 ありました。

 
 捕ったイナゴは、古手ぬぐいで作ってもらった袋に詰めて持ち帰り、熱湯を掛け
 たあと日干しにしました。

 あの時代、稲作は今で言うエコ栽培でしたのでイナゴは面白いほど捕れました。
 
 夕食に出してもらった親のイナゴ料理の味が忘れられず、いまも旅行などの
 際には買い求めています。

 
 写真は、お彼岸と共に咲き始めた庭のヒガンバナ (マンジュシャゲ) です。

2010年9月21日(火)
信州に行ってきました。

 
 9月18日から信州に行ってきました。
 19日に身内の法要がありまして、二泊三日で 「くだものの里」 を訪ねました。
 
 18日は三連休の初日とあって、45km渋滞のニュースを聞きながら出発を遅ら
 せました。

 それでも渋滞の後半に巻き込まれて、いつもの1.5倍近い 7時間弱かけての
 到着でした。 

 
 現地はブルーべりの季節は過ぎて、今は梨も終わりに近づき、ワセ (早生) 種
 のリンゴが、そろそろ収穫の時期になっていました。

 
 当日は涼しさの戻りと果樹園からながれくる風に包まれて、しめやかに法要が
 営まれました。

 
 20日の帰途は連休の最終日渋滞を避けて、朝の早い時間に出発したことで
 ほぼ順調に帰ることができました。

 
 写真は、このたび訪れた 長野県 下伊那郡 松川町の 「くだものの里」 で、
       色づいてきたリンゴと、まだ少し未熟なリンゴです。
                   ( 当地は、中央道 「松川 IC」 から≒5分です。)

2010年9月16日(木)
15日、樽本はお祭り。

 
 9月15日、今年も樽本ではお祭りが執り行われました。
 昨年は上樽・中樽・下樽、三集落のお祭りそれぞれに参加させていただき、その
 記録の一部はこのHP(ムービー) でもご紹介しています。

 
 今年は都合がつかず、昨年の楽しかった記憶を想い起こしていました。
 子供のころのお祭りは、年中行事の中で 「盆と正月」 に次いで楽しみでした。
 
 昔から樽本の祭りは、オミコシや露天出店などの習わしはなく村をあげて楽しん
 だのが、青年団 (学校卒業した男女が全加入) による素人演芸でした。

 
 娯楽のない時代でしたので、村の青年団の方々が歌や踊り演劇など、趣向を
 こらした催しで盛り上げて楽しませてくれました。

 
 近年の樽本は、過疎化にる高齢化が進み 「お宮」 の石階段の参道を登ること
 も困難な方々が多くなってしまいました。

 
 このため、お祭りは集落の会館に臨時の祭壇を設けて皆さんが集い、お招き
 した祭主からおはらいをしていただいています。

 
            【 写真は、手づくりした野趣の庭で憩うカップルです。

2010年9月13日(月)
稲刈り休み

 
 ふる里から稲刈りが始まった、との知らせが届きました。
 子供のころはもっと遅かったように思いますが、早稲 (ワセ:実りの早い) 種なの
 かも知れません。

 
 昔、稲の収穫が本格化する時期 (9月下旬?) に、小中学校共に 「稲刈り休み」
  と言う一週間ほどの休校日がありました。

 その日数分、夏休みが短かったと思います。
 
 s20年代、稲の刈りとり収穫のすべてが人手による作業でした。
 大人たちは稲の刈りとりで、朝から晩まで田んぼの中で腰をかがめて作業を
 していました。

 
 子供たちは刈りとられた稲束 (イナタバ) を、一箇所に集めるなどの仕事を
 手伝っていました。


 春の 「田植え休み (5/28付け日記)」 と同じように、乳幼児をオンブして手伝う
 年長の子供たちも沢山いました。

 
 写真は、8月18日付け日記で庭の鉢植え 「稲穂の花」 が実った姿です。
       9月13日の撮影です。
  


2010年9月7日(火)
アスビ場 「クラブ」

 
 樽本は四つの集落で構成しますが、私の生まれ育った上樽本地区には子供
 たちがいつも集まるアスビ (遊び) 場がありました。

 
 そこは上樽のほぼ中央にあった共用施設で、「クラブ」 と呼び合っていました。
 写真は、近年まであったその建物です。
 ( この施設の跡地に樽本温泉が建設されました。) 

 
 クラブではいつも夕方暗くなるころまで、幼児から中学生までが一緒になって
 遊んでいました。

 当時は、男子は男子だけで、女子は女子だけで遊ぶ時代でした。
 
 記憶にあります当時のアスビは、鬼ゴッコ、隠れンボ、縄跳び、陣とり、メンコ、
 鉄棒、ボール投げ、イチョウ投げ、ケンケン跳び、オハジキ、お手玉、等など。

 まだまだ、あったように思います・・・。
 
 オンブしていた乳幼児が眠ってしまうと、クラブ建物内に寝かせて自分は庭周り
 で遊ぶ年長者も少なくはありませんでした。

 
 クラブ建物内には井戸やトイレ、沢山の古い図書、卓球台などの設備があって、
 子供たちが自由に使うことができました。

 
 冬には、スキー遊びに飽きると途中からクラブ建物に移動して、卓球を楽しんで
 いました。

 
 写真は、20歳年上の兄(故人)の自分史 「椎ノ木カ樫ノ実」 からの転載です。
        H3(1991)年発行。
 
 

2010年9月1日(水)
手づくりのアスビ

 
 s28(1953)年の春、転校で樽本を離れるまでのアスビ (遊び) を想い起こします
 と、出来あいのモノで遊ぶことは殆どなく、子供なりの工夫で楽しんでいました。

 
 「メンコ」 遊びなどは、山里の樽本では日常メンコを買うのは困難で、お盆に、
 お寺の境内に遠い町から訪れる一軒だけの出店で買えるのが精々でした。

 そのほかは、色々な工作や自然とのたわむれでした。
 
 強がりの度胸比べで巨木の、どの高さまで登れるかを競った 「お宮の神木」。
 荒縄(*)を、お宮の神木にくくり付けて高々と空中遊泳のように振るブランコ。
 このほかにも、昔の男子なればこそ、の遊びを楽しんでいました。
  <荒縄: 重い荷物背負いに使う、ワラで編んだ太さ2cmほどの縄。>
 
 遊び具の工作では、家の道具箱からノコギリ、ナタ、キリ、トンカチなどを持ち
 出して、時にはケガをしながら自作していました。

 
 自作の記憶ではコマ、竹馬、弓矢、水鉄砲、竹トンボ、輪転がし、空き缶下駄、
 などなど、当時は仲間とそれなりに楽しめた遊びでした。

 
 写真の左は、上樽集落のお宮、昔あった神木「イタヤカエデ」。
          ブランコ遊びや木登りをした神木です。S49(1974)年8月撮影。
       右は、お宮の参道。写真の神木は、この98段の石階段の頂上にあり
          ました。H20(2008)年9月撮影。 

 

2010年8月25日(水)
子供のころのアスビ

 
 樽本の方言で、「遊び」 は 「アスビ」 になります。
 樽本の掲示板(8/18) 「交歓ひろば」 に 「懸命人氏」 が、昔、樽本の子供たちが
 冬に楽しんだ雪アスビの数々について、絵付きでご紹介くださいました。

 ありがとうございます。
 
 この冬のアスビもそうですが、当時、一人で何かのアスビに興ずるような子供は
 皆無に近く、常に何人もが集まってワイワイ騒ぎながら遊んでいました。

 
 一方、冬を除く農耕期では、仕事手伝いができる年令になれば下校後や週末
 には、親たち大人と共に田畑にかり出された子供も少なくありませんでした。

 
 アスビにいつも出られるのは、主に次のような子供たちでした。
  ・農耕の手伝いには早すぎる小学低学年
  ・弟や妹に幼児 乳児がいて、昼間は親に代わって子守をまかされている 
 
 遊び場ではいつも、乳児をオンブした中学生、幼児連れの小中学生、などが
 一緒になって年齢差に関係なく、子供たちが集まって仲良く遊んでいました。

 保育所などが、まだローカルには普及していなかった時代でした。
 
        【 写真は、5月はじめに咲いたクレマチスのタネの実りです。

2010年8月18日(水)
ままよ踊りの歌詞

 
 先回 (8月16日) の日記でご紹介しました盆踊り 「ままよ踊り」 の歌詞が、画像
 では読み取れない部分がありました。

 
 この 「ままよ踊り唄」 の全歌詞に、もし、ご関心がありましたらお知らせください。
 メール添付ファイルでお届けいたします。
 
 「樽本のオジ(ryuzi) の日記」 ページ  『ご意見、ご感想はこちらから。』 から
 ご請求ください。 お待ちしています。

 
 写真は、穂を出した庭の鉢植えの稲です。( 8月18日の撮影 )

 樽本の昔、お盆までに稲穂がどれくらい出るかで、その年の収穫量を大人たち
 が予想していました。

 
 

2010年8月16日(月)
盆踊りの唄

 
 < 昨日(8/15) の日記に続けてご紹介します。>
 
 樽本の盆踊りは、ヤグラや太鼓などはなく薄明かりのお寺境内で、大人たちが
 輪になって楽しく歌い踊るだけのものでした。

 
 その盆踊りを周りで眺めていた子供のころ、最も印象に残っている踊りは 
 「ままよ踊り」 でした。

  < ままよ(儘よ): なんとでもなれ (広辞苑による)。 >
 
 「ままよ踊り」 は、大きな輪になって踊る大人の男女が、共に声の掛け合いを
 楽しむ踊りであったように記憶しています。

 
 歌詞をいま読むと、子供には理解できない大人の世界があったことなど、あの
 ころは全く知りませんでした。

 
 かつて 「ままよ踊り」 を経験されて樽本を離れ、首都圏に在住されている方たち
 による親睦会 「ままよ会」 があります。

 いま、その新たな活動への動きが始まろうとしています。
 
  写真の歌詞は、「ままよ会」 初代会長 故K氏 (T12年生まれ) から
  譲りうけました。
 


2010年8月15日(日)
樽本の盆踊り

 
 <  昨日(8/14) の日記に続けてご紹介します。>
 
 s20年代、大人たちにも娯楽のとぼしい時代でした。
 『樽本音頭』 が作られたのも、この時代 (s23年) でした。
 
 奥深い山村の樽本ではなおのことで、お盆は大人たちにも年を通して最も
 楽しみな 「アスビ日」 であったと聞きます。

 
 お寺の境内に樽本の4集落の若者で集まって行われた盆踊りは、年最大の
 にぎわいであったと伝えられています。

 
 子供のころの記憶では、お寺の境内一杯に二重の円陣を作って歌い踊って
 いました。

 盆踊りは、「ままよ踊りの唄」 、「樽本音頭」 などであったと思います。
 
 s23(1948)年お盆の夜のこと、盆踊りの真最中に集落の一軒が火事になりました。
 高台にあるお寺からは、その惨状がハッキリ見えた恐怖感、子供のころのあの
 記憶が今も忘れられないでいます。

 
 ・写真のお寺参道の奥に、かつては立派な釣鐘のお堂がありました。
  2009年5月の撮影です。

2010年8月14日(土)
樽本のお盆

 
 子供のころ、お盆と正月が1年でもっとも待ち遠しい 「アスビ日」 で、お盆は
 8月の15日と16日の二日間でした。

 <アスビ日(樽本方言): 公休日= 村の大人が一斉に野良仕事を休む日。>
 
 中でも、お盆は都会や遠くに出ている多くの人たちが帰ってくる、1年でもっとも
 村がはなやぐ楽しい数日でした。

 
 樽本には 迎え盆  送り盆 の習慣はなく、「墓刈りの日」 として8月7日にお墓周り
 を掃除して、そのあとご先祖 (お墓) にお参りをしていました。

 
 お盆の間、大人たちは昼間、上樽本のお寺 「真宗寺」 に集まり遠くからみえる
 お坊さんの説教をありがたく拝聴していました。

 
 夜は真宗寺の境内で、大人たちは遅くまで大声で歌いながら盆踊りに興じて
 いました。

 その踊りを、眠気をおさえて眺めていた子供のころを、今の時期になると想い
 出します。

 
       【 写真は、昔、盆踊りが行われた最近の 真宗寺 と境内です。
  

2010年8月12日(木)
新しいページを開設しました。

 
 『 樽本の掲示板 交歓ひろば 』 を8月10日にオープンしました。
 
 このホームページをご覧くださる方、そのお知り合いの方をはじめ多くの方が
 自由に、樽本について交歓投稿する広場になればと願っています。

 
 樽本には原風景のままの豊かな大自然、1000年の歴史と伝わる数々の
 遺跡・遺構・遺物などが点在しています。

 
 さらに近年は、その効用が人気で人伝いに評判が広がっている 「樽本温泉」が
  あります。

 
 一方、樽本はいま、過疎化による少人数化と高齢化が急速に進みました。
 生活戸数はs30年代後半の20%以下となり、冬季はその数がさらに減少します。
 
 このような樽本についての思いや想い出、そして樽本が元気になる話し、さらに
 ご意見ご感想も含めて、バラエティーに富んだ投稿をお待ちしています。

 
 【 写真は、庭に咲くハマユウです。 今年は特に大きな花をつけました。】
 

2010年8月5日(木)
ヨノクチ

 
 このHPでご紹介しています 「樽本温泉」 の源泉を、昔から 「ヨノクチ」 と呼んで
 います。

 
 夏はたいへん冷たく冬は暖かい鉱泉で、樽本温泉はこれを加熱して温泉にして
 います。

 s20年代、ヨノクチの鉱泉は、夏の飲料水として貴重な 「冷水」 でした。
 
 真夏の朝、親たち大人が留守番する子供たちに、「ヨノクチの水クンドケヤ」 と
 言い残して田畑の仕事に出かけていました。

   <クンドケヤ(樽本方言): 汲んでおきなさい。>

 親たちが昼食に帰ってくる時間を見計らって、「ヨノクチの冷水」 を 「ヤカン」 に
 汲み置くのが、暑い夏の私たち子供の仕事になっていました。

 野良仕事から帰って、美味しそうに冷水を飲む親たちの姿を今も想い出します。
 
 【 写真は、珍しいサツマイモの花です。
  いつもの散歩道そばの畑で咲いていました。
  前日の夕方、散歩途中に花を 「発見」 して、翌日 (8/5) 炎天下での撮影です。
  初めて見るオドロキノの対面でした。 

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